清朝末期に進められていた立憲政治への改革は、実権をなお満洲貴族に独占させる「皇族内閣」の成立によって漢人官僚・知識人の期待を裏切る結果となり、さらに幹線鉄道の国有化政策が四川などで激しい反対運動(保路運動)を引き起こしていた。こうした不満が高まる中、1911年10月、武昌に駐屯していた新軍内部の革命派組織が、火薬の暴発事故をきっかけに計画の露見を恐れて予定を早め蜂起に踏み切ると、これに呼応する形で各省が雪崩を打つように清朝からの独立を宣言していった。孫文が長年海外で唱えてきた民族・民権・民生の「三民主義」の理念は独立運動の思想的支柱となり、革命は驚くほどの速さで全土に波及していく。この結果、清朝最後の皇帝であるわずか6歳の宣統帝溥儀は翌1912年2月に退位を余儀なくされ、秦の始皇帝以来2000年以上にわたり続いてきた中国の皇帝支配は、ここに歴史的な幕を下ろすことになった。