雲南出身のムスリムで幼くして宦官として宮廷に入った鄭和は、永楽帝の絶大な信任を得て、南海(インド洋方面)への大艦隊派遣を委ねられることになった。艦隊は全長100メートルを超えたとも伝えられる大型帆船「宝船」を含む数百隻、乗組員2万人以上という当時世界最大級の規模を誇り、1405年からの第一回遠征を皮切りに、以後7回にわたりチャンパ・スマトラ・セイロン・ホルムズ、さらにはアフリカ東岸のマリンディにまで到達する空前の航海を成し遂げた。遠征の目的については、周辺諸国に朝貢を促し明の威信を誇示する狙いのほか、靖難の変で行方不明となった建文帝の消息を探るためであったとする説もあり、諸説が併存している。しかし永楽帝の死後は莫大な財政負担を理由に遠征は打ち切られ、以後の明は民間の海上貿易を厳しく制限する海禁政策へと転じていくことになり、鄭和の遠征がもたらしたはずの海洋進出の機運は長く生かされないまま終わることとなった。