明末には度重なる天災による大飢饉、重税、東林党をめぐる激しい党争などが重なり、統治機構は著しく疲弊していた。こうした中、陝西で挙兵した李自成は「闖王」と称し、「李自成を迎えれば年貢を納めずに済む」といった民衆受けするスローガンを掲げて急速に勢力を拡大していく。1644年、李自成の軍はついに北京を陥落させ、追い詰められた最後の皇帝崇禎帝は紫禁城裏手の景山(煤山)で自ら首を吊り、270年余り続いた明は事実上滅亡した。だが山海関で清軍と対峙していた明の武将呉三桂は、李自成打倒のためにあえて清軍を関内へ招き入れるという苦渋の決断を下し、これが結果的に満洲族の清が中国全土を制圧する道を開くという、歴史の皮肉ともいえる展開を招くことになった。