後周の世宗柴栄は即位後、南は南唐から淮南の要地を奪い、北は契丹(遼)に対しても遠征を敢行して瀛州・莫州・易州を回復するなど、統一事業を積極的に推し進めた名君として知られる。内政面でも禁軍の精鋭化を進めて後の宋の軍事力の基盤を作ったほか、955年には仏教寺院の経済力を抑制する大規模な廃仏(三武一宗の法難の一つに数えられる)を断行し、寺院の銅像を鋳潰して貨幣不足の解消に充てるなど実務的な改革者でもあった。しかし燕雲十六州の回復を目指した北伐の途上で病を得て、959年、志半ばの39歳で急逝してしまう。幼い恭帝が後を継いだことで後周の権力基盤には空白が生じ、この状況が翌年、有力武将であった趙匡胤による皇帝擁立劇(陳橋の変)を招く直接の要因となった。