五
五代十国 / 907 – 960
959王朝

世宗せいそう柴栄さいえいの死

後周こうしゅうの世宗せいそう柴栄さいえいは即位後、南は南唐なんとうから淮南わいなんの要地を奪い、北は契丹きったん(遼りょう)に対しても遠征を敢行して瀛州えいしゅう・莫州ばくしゅう・易州えきしゅうを回復するなど、統一事業を積極的に推し進めた名君として知られる。内政面でも禁軍の精鋭化を進めて後の宋の軍事力の基盤を作ったほか、955年には仏教寺院の経済力を抑制する大規模な廃仏(三武一宗の法難の一つに数えられる)を断行し、寺院の銅像を鋳潰して貨幣不足の解消に充てるなど実務的な改革者でもあった。しかし燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅうの回復を目指した北伐の途上で病を得て、959年、志半ばの39歳で急逝してしまう。幼い恭帝きょうていが後を継いだことで後周の権力基盤には空白が生じ、この状況が翌年、有力武将であった趙匡胤ちょうきょういんによる皇帝擁立劇(陳橋ちんきょうの変)を招く直接の要因となった。

関連する建造物・国宝・人物
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関連する人物
柴栄(後周世宗)
柴栄さいえい(後周こうしゅう世宗せいそう)
後周こうしゅうの第2代皇帝。南北への積極的な遠征と禁軍改革などの内政整備を進めた名君として知られ、その急逝が後の宋建国への道を開いた。
『中国歴代名人画像譜』(2003年刊) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
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