契丹(遼)の南下によって後晋が滅ぼされ一時的に開封が占領されると、契丹軍の過酷な統治や略奪に対して中原の民衆・地方勢力の抵抗が各地で強まり、契丹軍はほどなく北方へ撤退を余儀なくされた。この混乱に乗じて河東節度使劉知遠が太原で皇帝を称し、契丹撤退後の開封に入城して後漢を建てた。しかし劉知遠は建国の翌年に病没し、跡を継いだ若い隠帝が重臣たちを次々と粛清しようとしたことで軍の実力者郭威の離反を招き、後漢はわずか4年というきわめて短い期間で崩壊することになった。五代の中でも後漢は最も短命な王朝であり、この政権の急速な瓦解が次の後周建国、さらには北宋の統一へとつながる連鎖の一齣となった。