晋王李克用の子李存勗は、父の遺言(三本の矢に託した宿敵討伐の誓い)を胸に勢力を拡大し、923年についに後梁を滅ぼして自ら皇帝(荘宗)に即位、国号を唐(後唐)と定めた。後唐はその後前蜀も併合し、五代の中で最も広い版図を築いた政権として知られる。しかし荘宗は芝居や音楽を深く愛好し、自ら俳優のように舞台に立って「李天下」と名乗ったと伝えられるほど政務を疎かにし、寵臣や宦官の専横も相まって朝廷内の不満が高まっていった。926年には近衛軍の反乱(興教門の変)により荘宗は殺害され、義兄弟の李嗣源(明宗)が新たに即位するなど、最大版図を誇りながらも後唐の政権基盤は終始不安定なままであった。