後漢の重臣であった郭威は、若い隠帝から謀反の疑いをかけられ一族を殺害される事態に陥ったことを機に挙兵し、その最中に隠帝が乱兵により殺害されると、諸将に推戴される形で自ら皇帝に即位し後周を建てた。郭威は即位後、重税の軽減や流民の帰農を促す施策を進めて荒廃した華北の民生回復に努め、五代の歴代政権に比べて相対的に安定した統治基盤を築いたと評価される。実子を持たなかった郭威は、皇后の甥にあたる有能な養子柴栄(後の世宗)を後継者に指名しており、この人選が結果的に後周、さらには後の宋による中国再統一への道筋を用意することになった。短命な政権が乱立した五代十国の中にあって、後周の建国は次代の統一に向けた重要な転換点として位置づけられる。