新末の動乱の中で緑林軍から頭角を現した劉秀は、昆陽の戦いでの勝利などを経て諸勢力をまとめ上げ、紀元25年に皇帝に即位して漢王朝の再興を宣言した。前漢の高祖劉邦から数えて九世の子孫にあたるとされるが、即位当初の実際の勢力基盤は乏しく、その後十数年をかけて各地に割拠する群雄を次々と平定し、ようやく中国全土の再統一を果たすことになる。都は前漢の長安ではなく洛陽に定められたため、以後の時代は前漢と区別して「後漢」(または都の位置から東漢)と呼ばれる。即位後は度重なる戦乱で疲弊した社会を立て直すため、租税の軽減や奴婢の解放、官制の整理などの内政に力を注ぎ、その治世は「光武中興」と呼ばれる安定期として評価されている。武力による統一と柔軟な内政を両立させた統治手腕は、後世の皇帝たちの一つの模範ともされてきた。