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1949 – 現在

中華人民共和国の出来事一覧

国共内戦を制した共産党が、北京で新たな国家の樹立を宣言する。大躍進、文化大革命という激動と犠牲の時代を経て、鄧小平の改革開放がこの国を世界第二の経済大国へと押し上げていく——五千年の歴史は、今もなお書き継がれている。

1949中華人民共和国の建国
王朝

1949年10月1日、北京の天安門楼上に立った毛沢東は「中華人民共和国中央人民政府成立」を高らかに宣言し、長期にわたった国共内戦は共産党の勝利という形でひとまずの決着を見た。この日、天安門広場には推定30万人ともいわれる群衆が集まり、祝賀のパレードや花火が行われたと伝えられる。新政権はソ連を範とする社会主義建設路線を採用し、都市部での工商業の国有化や農村部での土地改革(地主から農民への土地再分配)を急速に進めていった。以後、天安門とその前に広がる天安門広場は、国慶節の軍事パレードをはじめとする国家的な政治儀礼が執り行われる象徴的な空間として、現在に至るまで中国の政治体制における中心的な役割を担い続けている。

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1958大躍進政策だいやくしんせいさく
文化

毛沢東は「イギリスに15年で追いつき追い越す」という目標を掲げ、農村の隅々にまで小型の溶鉱炉を設置して増産を図る「土法炼鋼」運動や、農業生産・生活のすべてを一体化して管理する「人民公社」化を急進的に推し進めた。しかしこの過程では、地方幹部が上級機関への報告で収穫量を実態以上に水増しする「浮夸風」と呼ばれる現象が広がり、これに基づいて設定された過大な穀物供出割当が農村から必要な食糧までも奪う結果を招いた。加えて自然災害や、鉄鋼増産のため農作業の労働力・農具までもが転用されたことも重なり、1959年から1961年にかけて中国は深刻な食糧不足に見舞われることとなる。この期間の犠牲者数については研究者の間でも推計に大きな幅があり、数百万人から4000万人規模に及ぶとする説まで存在するが、いずれにせよ20世紀有数の人為的な大飢饉であったとする点では見解が一致しており、政策自体も1960年代初頭には事実上撤回されることとなった。

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1966文化大革命ぶんかだいかくめいの開始
文化

大躍進政策の失敗により一時党内での影響力を後退させていた毛沢東は、自らの権威回復と、劉少奇・鄧小平ら実務を重視する党内実権派の排除を狙いとして、1966年に文化大革命を発動したとされる。「造反有理(反逆には道理がある)」のスローガンのもと、紅衛兵と呼ばれる若者組織が全国で動員され、既存の権威・知識人・伝統文化を「四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)」として攻撃の対象とした。この過程で多くの知識人・幹部・一般市民が迫害を受け、農村への強制的な下放、暴力による負傷、自殺に追い込まれた事例が数多く記録されており、教育機関の長期閉鎖や貴重な文化財の破壊など、社会・文化面での損失も甚大なものとなった。1976年の毛沢東の死去と、江青ら「四人組」の逮捕によって混乱は事実上終結し、1981年に中国共産党自身が採択した公式の歴史決議は、文化大革命を「建国以来最も深刻な挫折と損失をもたらした」内乱であったと総括している。

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1972米中接近(ニクソン訪中)
対外関係

1969年に中ソ国境で発生した武力衝突(珍宝島事件)を機に、中国は最大の脅威をソ連とみなすようになり、対抗上米国との関係改善に活路を見出そうとしていた。米国側もベトナム戦争の収拾を模索する中で中国との連携に戦略的な利益を見出し、1971年にはキッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に北京を訪問して地ならしを行った。これを受けて1972年2月、ニクソン大統領が現職の米国大統領として初めて中国を公式訪問し、毛沢東・周恩来と会談を行うという、冷戦下では想像しがたい歴史的な出来事が実現した。この訪問の成果として発表された「上海コミュニケ」は、台湾問題をめぐる立場の違いを棚上げしながらも両国関係正常化への道筋を示すものとなり、正式な国交樹立は1979年までずれ込んだものの、既に1971年の国連総会で中国代表権が中華民国から中華人民共和国へ移っていたこととあわせ、中国の国際社会への本格的な復帰を大きく後押しする転機となった。

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1978改革開放政策の開始
文化

文化大革命終結後の激しい党内権力闘争を経て、1978年12月に開かれた中国共産党第11期三中全会において、鄧小平は事実上の最高指導者としての地位を確立し、「階級闘争」路線から経済建設中心の路線への歴史的な転換を打ち出した。「白猫でも黒猫でもネズミを捕るのが良い猫である」という言葉に象徴される実利重視の姿勢のもと、農村では人民公社を解体して各農家が生産を請け負う「生産請負制」が導入され、農業生産性が大きく向上した。都市部・沿海部では深圳・珠海・厦門・汕頭に経済特区が設置され、外国資本や技術の導入、輸出加工型の産業育成が積極的に進められることとなる。この改革開放路線は以後数十年にわたり平均で年率2桁近い高度経済成長を持続させる出発点となり、中国が後に「世界の工場」と呼ばれる存在へと変貌を遂げる大きな転機となった。

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1989天安門事件
戦争・動乱

1989年4月、改革派の指導者として知られた胡耀邦前総書記の死去を悼む集会をきっかけに、北京の学生を中心とする若者たちが天安門広場に集まり、政治改革や言論の自由、汚職の追放などを求める抗議行動を開始した。運動は瞬く間に北京以外の主要都市にも広がり、一部の学生はハンガーストライキを行うなどして広場を占拠する状態が数週間にわたり続いた。この間、党内では運動への対応をめぐり、対話による収拾を模索する穏健派と、断固たる措置を求める強硬派との間で意見の対立があったとされる。5月20日には北京に戒厳令が布告され、6月3日深夜から4日未明にかけて人民解放軍が装甲車両を伴って広場周辺の制圧に乗り出し、これに抵抗する市民・学生との間で衝突が発生した。この際の死傷者数について中国政府による公式な統計は公表されておらず、目撃者の証言や各国政府・研究者による推計にはなお大きな幅がある。事件をめぐる公の議論や追悼行為は現在も中国国内では厳しく制限されている一方、国際社会においては人権や民主化をめぐる歴史的な出来事として、現在に至るまでたびたび取り上げられている。

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2001WTO加盟
対外関係

1986年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)への復帰を申請して以来、実に15年に及んだ交渉の末、中国は2001年12月11日、正式に世界貿易機関(WTO)への加盟を果たした。加盟にあたっては関税の大幅な引き下げ、市場の対外開放、国有企業改革の推進など数多くの義務を受け入れる一方、それと引き換えに得た安定的な輸出市場へのアクセスは、その後の中国経済にとって計り知れない恩恵をもたらすことになる。加盟後のわずか10年ほどの間に中国の国内総生産(GDP)と貿易総額は飛躍的に拡大し、2010年には日本を抜いて米国に次ぐ世界第2位の経済大国へと躍進を遂げた。もっとも、その急速な成長の過程では知的財産権の保護や国有企業への補助金をめぐる問題が各国から繰り返し指摘されるようになり、これらは現在に至るまで国際的な貿易摩擦の火種として残り続けている。

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2008北京オリンピック開催
文化

2001年、国際オリンピック委員会の投票により北京はトロント・パリ・イスタンブール・大阪などの候補地を破って2008年夏季オリンピックの開催地に選ばれ、改革開放から30年という節目の年に大会を迎えることとなった。映画監督張芸謀が総合演出を手がけた開会式は壮麗な演出で世界に強い印象を残し、会場として建設された「鳥の巣」(国家体育場)や「水立方」(国家水泳センター)は北京の新たなランドマークとなった。大会では中国選手団が金メダル獲得数で史上初めて首位に立ち(総メダル数では米国に次ぐ2位)、スポーツ大国としての存在感を国内外に強く印象づけた。一方で開催前の聖火リレーの過程ではチベット問題や人権状況をめぐる国際的な抗議行動が各国で発生するなど、大会そのものが政治的な注目を集める場ともなり、光と影の両面を伴う出来事として記憶されている。

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