北魏の第7代皇帝。洛陽遷都と徹底した漢化政策を断行し、鮮卑族と漢族の融合を大きく進めた改革者として知られる。
鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏の皇帝として、471年にわずか5歳で即位した。幼い皇帝に代わって政治を主導したのは祖母にあたる馮太后(文明太后)で、485年の均田制、翌486年の三長制といった、後の隋・唐にも受け継がれる重要な制度はこの時期に始まった。
490年に馮太后が没して親政を始めると、孝文帝は南朝への遠征を名目に、494年に都を北方の平城(現在の山西省大同)から中原の洛陽へ移した。さらに鮮卑の服装や朝廷での鮮卑語の使用を禁じ、帝室の姓を拓跋から漢風の「元」に改め、鮮卑の貴族と漢人の名門との婚姻を勧めるなど、徹底した漢化政策を進めた。この改革は胡漢の融合を大きく前進させた一方、北方の国境地帯に残された鮮卑の軍人たちの不満を生み、523年に始まる六鎮の乱を経て北魏が東西に分裂する遠因にもなった。本人は499年、南朝斉への遠征中に33歳で没している。