八王の乱で西晋の国力が著しく消耗する中、南匈奴の単于の血を引く劉淵は、八王の一人に軍事協力する形で勢力を蓄えたのち、304年に自立して皇帝を称し国号を「漢」(後に前趙と呼ばれる)と定めた。匈奴出身の劉淵があえて「漢」を名乗ったのは、自らを前漢・蜀漢の後継者と位置づけることで中国内の統治の正統性を主張しようとする意図があったとされる。この劉淵の自立を皮切りに、それまで西晋の統治下、あるいはその周辺で暮らしていた匈奴・鮮卑・羯・氐・羌という五つの異民族(五胡)が次々と華北各地で独自の政権を樹立していくことになる。西晋はこれら新興勢力の伸長を抑えるだけの軍事力をすでに失っており、華北の政治的主導権は急速に異民族政権の側へと移っていった。この動きはやがて西晋を滅亡に追い込み、以後1世紀以上にわたり華北で異民族政権が興亡を繰り返す五胡十六国時代へとつながっていく。