紀元前8000年、まだ「中国」という国はどこにもなかった。黄河のほとりに、長江のほとりに、稲を育て、彩色の土器を焼く人々が現れる。神話が伝える黄帝や堯、舜、禹——伝説と考古学の出土品が交錯するこの時代こそ、五千年の物語が静かに幕を開けた瞬間である。
長江下流域の浙江省余姚一帯で発見された河姆渡遺跡では、大量の炭化した稲籾や骨製の農具、高床式建物の柱穴跡が出土しており、中国最古級の稲作農耕文化の姿を伝えている。低湿地という環境に適応した高床建築は、後の江南地方の住居様式の源流の一つとも考えられている。出土した豚や水牛など家畜の骨からは、農耕と並行して牧畜も行われていたことがうかがえる。1970年代の発掘調査によって存在が広く知られるようになり、黄河文明中心史観を見直す契機ともなった遺跡である。
黄河中流域の陝西・河南・山西一帯に広がった新石器文化で、赤地に黒や赤で文様を描いた彩陶を特徴とすることで知られる。代表的な遺跡である西安近郊の半坡では、環壕に囲まれた集落跡や竪穴住居、共同墓地の遺構が発見され、当時の集落生活の様子を詳しく知ることができる。彩陶に描かれた人面魚文などの図像は、宗教的・呪術的な意味を持っていたとする説もある。仰韶文化は数千年にわたり存続し、後続の竜山文化へと徐々に移行していったと考えられている。
山東地方を中心に栄えた新石器文化で、精巧な彩陶や薄手の黒陶、そして玉器の製作技術の発達を特徴とする。墓地遺跡の副葬品には豊かなものと乏しいものとの差が見られ、この時期すでに私有財産の蓄積と社会階層の分化が進んでいたことを示す証拠と考えられている。象牙製の器や大型の石斧など、権威の象徴とみられる副葬品も出土しており、首長層の存在をうかがわせる。この文化は後に山東地方の竜山文化へと発展的に継承されていったとされる。
山東省章丘県の城子崖遺跡で最初に発見されたことからその名がつけられた文化で、轆轤(ろくろ)を用いて成形された薄手で光沢のある黒陶を特徴とする。版築技法による城壁を備えた集落遺跡が各地で確認されており、集団間の緊張関係の高まりと、より組織化された社会への移行を示すと考えられている。占卜に骨を用いる風習の萌芽もこの時期に見られ、後の殷代甲骨占卜の源流の一つとされる。竜山文化は後の夏王朝の成立母体の一つとしても位置づけられている。
中国神話における代表的な始祖抗争の伝承で、黄帝が異民族の首長とされる蚩尤を涿鹿の地で破ったと伝えられる。この戦いの記述は後代の文献にまとめられたものであり、史実として確定できるものではないが、中国古代における部族連合の形成過程を反映した伝承と見る研究者もいる。黄帝は勝利の後、周辺諸部族を糾合した伝説的な始祖として位置づけられ、後世「炎黄子孫」という言葉に象徴されるように漢民族共通の祖として神格化されていった。現在も陝西省などに黄帝を祀る陵墓・廟が伝わり、今日まで祭祀の対象となっている。
実力や血統によらず、徳のある人物へ王位を譲る「禅譲」の理想を体現する伝承として、堯が舜に、舜がさらに禹に位を譲ったと伝えられる。この物語は後世の儒家によって理想的な統治のあり方として繰り返し称揚され、有徳者による統治という政治思想の重要な典拠となった。史実としての実態は明らかでないが、後代の王朝交代において自らの正統性を主張する際にも、しばしばこの禅譲の故事が引き合いに出された。堯・舜を祀る廟は山西省など各地に伝わり、現在も伝説の記憶をとどめている。