将軍蒙恬に命じて匈奴を北方へ退けた上で、戦国時代に燕・趙・秦などが個別に築いていた防壁を連結・修築し、西は臨洮(現・甘粛省)から東は遼東に至る大規模な防衛線を築き上げた。工事には全国から徴発された数十万人ともいわれる民衆が動員され、過酷な労役により多くの犠牲者を出したと伝えられ、これが秦への民衆の不満を高めた一因ともされる。「孟姜女泣長城」(夫を長城建設で失った女性が城壁を泣き崩したという伝説)はこの労苦を象徴する説話として後世広く語り継がれている。現存する秦代の城壁遺構は少なく、現在観光地として知られる長城の多くは後代、特に明代に大規模に改修・増築された部分であるが、この時に定まった北方防衛線という構想そのものは以後の歴代王朝にも受け継がれていった。