厲王れいおうの圧政と言論統制に対し、都に住む「国人」と呼ばれる人々が蜂起し、厲王は都を追われて彘てい(山西省)の地へ逃れたと伝えられる。王が不在となった周では、有力な大臣であった周公・召公しょうこうらが合議によって政治を執り行う「共和行政」と呼ばれる異例の統治体制が敷かれた。この共和元年(前841年)は中国史上、年代が確実に一年単位で判明する最初の年とされ、以後の中国の紀年法における重要な基準点となっている。共和行政は厲王の死後、その子である宣王せんおうの即位まで十四年間続いたと伝えられる。