隋の第2代皇帝。大運河の建設や科挙制度の整備など後世に残る事業を進めた一方、度重なる外征と暴政により隋を短命に終わらせた皇帝として知られる。
隋を建てた文帝(楊堅)の次男として569年に生まれた。589年の陳を滅ぼす遠征では総大将を務め、600年には兄楊勇に代わって皇太子となった。604年に父が没して即位したが、父の死には楊広の関与を疑う説も古くから伝えられている。
即位後は東都洛陽の造営や、黄河と長江を結ぶ大運河の開通といった大事業を短期間で進め、大運河はその後の中国の南北をつなぐ大動脈となった。官吏登用試験の科挙も、煬帝の時代に進士科が置かれて形を整えたとされる。日本との関わりも深く、607年に遣隋使小野妹子が持参した「日出づる処の天子」で始まる国書を見て不快を示したという話は『隋書』に記されている。しかし612年から3度にわたる高句麗遠征はいずれも失敗し、相次ぐ動員と重い負担に耐えかねた民衆や豪族の反乱が全国に広がった。煬帝は江都(現在の揚州)に逃れて政治を顧みなくなり、618年に近臣の宇文化及らに殺害された。「煬」は天に逆らい民を虐げた君主に贈られる諡で、次の唐によって付けられたものである。