北宋の建国者。陳橋の変により推戴されて即位し、五代の武断政治を反省して文治主義への転換を進め、以後300年以上続く宋王朝の国是を定めた。
927年、五代の洛陽で軍人の家に生まれた。後周の世宗柴栄に仕えて各地の戦いで功を挙げ、皇帝直属の禁軍を率いる地位にまで上った。959年に世宗が没し、7歳の恭帝が即位すると、翌960年、北方への出陣の途中に陳橋駅で部下の将兵から皇帝の象徴である黄色の衣を着せられて推戴され(陳橋の変)、そのまま開封に戻って禅譲を受け、宋(北宋)を建てた。
軍人が皇帝を倒して即位する五代の繰り返しを終わらせるため、即位後は有力な将軍たちを酒宴に招いて兵権を返上させたと伝えられ(「杯酒釈兵権」)、地方の軍の精鋭を禁軍に集めて中央の力を強めた。さらに皇帝自らが科挙の最終試験を行う殿試を始め、試験で選ばれた文官が政治を担う「文治主義」の礎を築いた。対外的には後蜀・南漢・南唐など南方の国々を次々と併合して統一を進めたが、完成を見ないまま976年に急死した。後を継いだのは息子ではなく弟の趙光義(太宗)であったため、その死の経緯をめぐっては「燭影斧声」と呼ばれる疑惑の伝説も残されている。